流域人と森(後編)

今年6月に投稿した流域人と森(前編)から随分と日数が経ってしまいました。
しかし、じっくり時間を置いてからの発信が、
よい感触と思える「何か」を掴ませてくれることも。^^
流域をテーマにお話できることは、実に多岐に渡るはずです。
ですから、前編と後編のたった2回だけで、
流域の多面的な全貌を表現し尽くせるわけもなく。。。^^
流域については、今後もレポートすることがあることでしょう☆
 
さて、日本列島には、一級河川と呼ばれる大きな川が109あります。
日本に住むほとんどの人は、この一級河川のお世話になっているわけです。
飲料水をはじめとする生活用水はもちろんのこと、
農作物や産業活動、森林生態系の保持にも欠かせない、
109の脈。
 
明治の廃藩置県以降に、人工的に区切られた都道府県ラインがあろうとなかろうと、これらの脈は、のびやかに自然の摂理を表現してくれている。
(都道府県という「区分け」には、たった200年にも及ばない程の歴史しかなく、地球が誕生してからの46億年に比べれば、ほんの一瞬の人為的出来事に過ぎません。)
 
上善は水のごとし、水はよく万物を利して争わず。
老子が唱える「柔弱謙下(じゅうじゃくけんげ)」「無為自然(むいしぜん)」。。。
やはり、水から、自然から、学ぶことは無尽というわけです ∞ ^^
 
「ケンミン」という所属意識を楽しむ地上波からの「ショータイム」もよいですが、もっと地下水脈も含めた、自身の流域にアイデンティティーを寄せて生きてみると、これまで囚われていた価値観、人生観も、違うものへとシフトして、
見える景色がまるで変わってくる。
 
きっと、縄文人は流域という生命共同体(あらゆる動植物を含めた生きものとしてのコミュニティーとでも言いましょうか)を五感で認識していたと思うのです。
「流域人として」というよりも、「流域生命体のひとつとして」という感覚だったのではないでしょうか。
 
その視点、世界観、生命観を思い出すプロセスとして、
まずは「流域人」という発想から、何かをはじめてみようと思います。
流域生命体の中で生きる私たち人間は、みんな流域人なのですから。^^
 
現代人がすっかり「常識的観念」に凝り固まり、
貧弱化させてしまった『創造性』を
再び、自分たちの力で取り戻す。
もう一度、自らの中に思い出す。
 
自身で自身を、リラックスさせ、
自身で自身を、治癒できる。
 
そんな社会展開の入口を、
そんな文明転換の入口を、
今こそ、みんなでつくりはじめる。
 
誰からはじまったのかも、
どこからはじまったのかも、
あまり大きな意味はない。
そんなことは、どうでもいい。
本当に、どうでもいい。
 
みんなでつくる、みんなのライフなのだから。^^
 
 
【参考文献】
・『流域環境学 流域ガバナンスの理論と実践』
 和田英太郎 監修/谷内茂雄・脇田健一・原雄一・中野孝教・陀安一郎・田中拓弥 編(2009)京都大学学術出版会
http://www.kyoto-up.or.jp/book.php?id=1599&lang=jp
 
・『水がなくなる日』
 橋本淳司(2018)産業編集センター
https://www.shc.co.jp/book/2616
 
・『カワサポ』
 (2014)一般社団法人 ClearWaterProject
https://www.kawa-supporters.net/
 
・『生命賛歌』
 エレファントカシマシ(2003)FAITHFUL
https://www.joysound.com/web/search/song/52256
 
【投稿者】
 松田 卓也(アースフォレストムーヴメント)
 
【投稿日】
 2020年9月2日