公と森(後編)

「水、空気、緑、こんなの一切いらないよ。
 私は私だけで不死身だから、
 そんなもんに頼らなくても大丈夫なんだよねー。」
 
あたり前ですが、この現実世界で
そんな人間はどこにもいません。^^
 
どんな考え方の人であっても、
どんな立場の人であっても、
いのちをつなぐためには、
絶対不可欠なものがある。
 
 
水も、空気も、緑も。。。
食べるものも、着るものも、住まいも。。。
移動する乗りものも、情報を集める手段も、働く場所も。。。
 
 
あたり前のように日常にあるけど、あたり前じゃない数々。
これらを今回ここで述べささえていただく「公」としましょう。^^
 
もちろん、「公」の捉え方は、人それぞれいろいろあっていい。
それぞれの思う文明論や国家論を表現し合って、「公」についての議論を深めるのも、それはそれで大切なことでしょう。
 
だけどここでは、
すべての人たちがともにベースにしている『共有財産(公共財)』のみを「公」として扱うことにいたしましょう☆^^
 
(特定の「イズム」をベースにした「公」論を持ち出すつもりはないということです。その善し悪しは別として、「公」とはこうあるべきだと声高に主張することが、このブログの目的ではありませんからねぇ^^)
 
そうそう、以前このブログで取り扱った
社会的共通資本(みんなで大切にするべき、みんなのもの)』を
ここで言う「公」と思ってもらってもよいです^^
 
この意味において、現代の「公」は、随分とないがしろにされている存在のような。
どうも、利益追求の市場原理に食い破られ、追いやられてしまっている気が、、、。
 
森も、風景も、その価値は、「値段」として数値化されて、
川も、大地も、その意味は、「需要」として言語化される。
 
世界全体がそのメカニズムで、今日もあしたも、ぐるぐると回り続けている。
 
この流れは、きっといつか行き詰まるんだろう。
(そして、この行き詰まりは、決してネガティブなことばかりでもないはずです。^^)
 
国も個人もすっかり相互依存に組み込まれ、グローバル化した世界経済も、
そして、それを基盤とした日常の中の常識ひとつひとつも、
ごろりんっと変わらざるを得ない臨界点に、
今や近づきつつあるのかもしれない。
 
どのような形で変化するのかは、誰にもわからないけれど。
 
いつかの未来で、多くの人たちが、
様々な『公共的価値』に改めて気づき出し、
本当に大切なものに目を向けはじめる局面が来たときに、
実ある森林再生のひとつの手法』が
時代の荒波の中で、埋もれてしまわないように。
 
たとえそれが
「値段」や「需要」とは
全く無縁なものであったとしても。
 
たとえ今は
風前の灯火とも思える程
ささやかな前進であったとしても。
 
 
【参考文献】
・『社会的共通資本としての川』
 宇沢 弘文 編 大熊 孝 編(2010)東京大学出版会
http://www.utp.or.jp/book/b306126.html
 
・『公共貨幣』
 山口 薫(2015)東洋経済新報社
https://str.toyokeizai.net/books/9784492654743/
 
・『情熱の薔薇』
 THE BLUE HEARTS(1990)イーストウエスト・ジャパン
https://www.joysound.com/web/search/song/2747
 
【投稿者】
 松田 卓也(アースフォレストムーヴメント)
 
【投稿日】
 2020年11月30日