森林本位制と森(前編)

「鎮守の森」という言葉があります。
ある領域を鎮め守る森で、日本においては神社の境内にある森のこと。
 
「世界遺産」という言葉があります。
文化遺産や自然遺産の保護条約に基づいて、人類が共有すべき普遍的価値を持つものとして認められたもの。
 
ここでは「鎮守の森」や「世界遺産」の存在を肯定も否定もしません。
人々がそう呼ぶものが紛れもなく現代に存在していることに、ただ着目してみます。
(私は特定の宗教を持ちませんし、特定の政治スタンスも持っておりません。)
 
「鎮守の森」や「世界遺産」という概念が全くない世界を想像してみてください。
すべてが開発の対象として、つまり物質的経済価値に換算できる「資源」として自然(森)を扱っている世界。。。
あなたは、その世界にどんな印象を持ちますか?
 
『自然(森)を守る・生かす価値』と『自然(森)を奪い・使う価値』
どちらにどれだけ重きを置くのかは、そこに住む人、その時代に生きる人によって、決められてきた。
7対3の価値割合なのか、2対8の価値割合なのか、
その時を生きる人によって、決められてきた。
 
つまり全人類の集合意識が、そのバランスを決定するものと言えるのかもしれない。
 
どの時代にも、守る意味、生かす意味を鋭く問いかける表現者は、存在している。
太古から今に至るまで、あらゆるジャンルのあらゆる芸術の中に、存在している。
 
たとえば、既存の社会システムが絶対的に拒絶するくらいの『生命の尊厳・自然の尊厳』を唱える表現者がいたとします。
その人を完全否定できるほどの説得力のある社会システムに私たちは生きているだろうか。。。
生命の尊厳や持続可能性という意味において、極めて説得力のない今日の社会システム。
その中で毎日を生きていると、もはや「説得力のある社会」に価値を感じる感性さえも鈍っているのではないだろうか。。。
 
森林を「必要以上に」物質的資源へと転化しなくても、
『森林は森林のままで存在しているだけで、すばらしい価値があると誰もが認めている世界』を我々が選んだとする。
その世界の先に展開される未来は、どんな未来だろうか。
 
不自然な現代社会を、自然なものへと根本的にシフトするはじまりは、
この世界(『森林は森林のままで存在しているだけで、すばらしい価値があると誰もが認めている世界』)
を想像することからと考えているのは、私だけだろうか。
 
まずはじめに私たちが踏み出すとすれば、
森林の存在が担保されてはじめて経済を回すことができる、経済力だけを至上のものとしない世界、
つまり『森林本位制』の世界からなのかもしれない。
(『森林本位制』というイメージ遊びは、来月後編へと続くのであった~☆^^)
 
はじめは古いマネーゲームの対象物として、森が扱われることになっても、
この制度をひと度導入したら、次第にこれまでのあらゆる価値観が「フラット」にされて、
生きるおもしろさや意味も、人それぞれに自由なタイミングで、自然と変化しはじめる可能性があります。
 
その変化を一番嫌がっているのは、誰なんでしょうか。
その変化を一番怖がっているのは、誰なんでしょうか。
 
どうして嫌がるのですか?
どうして怖がるのですか?
 
 
【投稿者】
 松田卓也(アースフォレストムーヴメント)
 
【投稿日】
 2019年9月30日